谺草子

ある時は名古屋の大学生として、またある時は「槌井こだま」として、日々を記録していきます。

リアルに近づくフィクションとか

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つい昨日まで僕は大学生というより演劇人だった。経験したなかで最大規模の公演に役者として参加し、界隈で有名な役者(みな年上)と共演し、学生主体の劇団としては最高レベルのものができたと思う。

 

この劇を作るにあたって僕含め12人の役者は演出を中心に据えてそれぞれの役の持つ思惑、感情をなるべく格好つけないように、なるべく生に近い感じで客席に届けることを目標にして稽古を重ねてきた。その結果そんじょそこらの劇では観れないレベルの叫び声の応酬、感情の衝突を作り上げることができたと思う。観客は観ていて相当疲労感を覚えたと思うし、実際終演後に寄せられた感想のなかには「観ていて疲れた」「しんどい」という意見も多くはなかったがあった。

 

小屋入りをして客席が組み上がって、僕はずっとこの劇の「リアリティ」について考えていた。上演時間はだいたい90分、そのうち役者が叫び声や怒鳴り声をあげている時間は少なく見積もっても40分くらいだっただろうか。実世界でそれだけ長い時間怒号が間髪を入れず飛び交う現場に遭遇したことがある人はどのくらいいるだろう。僕は経験したことが無い。そもそも自分の大学生活にそこまで感情が入り込んでいるような気がしない。普段感じていることは「快」「不快」「楽しい」「楽しくない」くらいの原初的な感情だ。それはきっと自分だけじゃなくて、結構な数の人がそう思っているに違いない。感じたものをそのまま出すのは疲れるし、自分の不利益にも繋がりかねない。逆に生の感情を受け取るのも疲れる。

 

自分の周りには"演劇"然とした芝居がたくさんある。詞的で幻想的で青春の匂いがして現代的なアプローチと古臭い芝居論のあいの子みたいな中途半端な……そんな劇も好きなものは好きだが、虚構性を高めようとしてかえって自分の中の実世界に近づいているような気がする(それは全然悪いことじゃないのかもしれない)。逆に、今回の劇のような感情ぶつけ合いの方がフィクションのように感じられる。それは演劇をやっている人たちに所謂オタクが多いからかもしれない。たとえば声優の演技は現実の人間の声の機微とはかけ離れている。それを僕らは日々消費している。声優の声であふれかえった世界が常だとしたら、そっちのほうがリアリティを持つことになって、普通の人の話す言葉の抑揚とか間は「生っぽい」だけで「リアル」ではなくなる。これは面白い発見かもしれない。