谺草子

ある時は名古屋の大学生として、またある時は「槌井こだま」として、日々を記録していきます。

自分の想像力とか演劇とか

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自分は文章を書くときに長々と推敲してしまう。時々面白い小説を思いついたりしてスマホのメモ帳に書き始めるんだけど、細かな部分を推敲しているあいだに熱が冷めて文字を打つ手が止まってしまう。だから思った、せめてブログとかのどうでもいい文章を書く時くらいは長考はやめようと。

 

最近つくづく、自分には想像力が無いな、と思う。何を想像力と呼ぶかによって話は変わってくるだろうけど、たとえば小説の一説から場面の絵ヅラを想像するのは簡単だ。「国境の長いトンネルを~」という『雪国』の有名な冒頭から場面の情景を思い描くのは難しいことでも何でもない。でも、登場人物の心情とか、思考・感情の流れを想像するのは苦手だ。まだ小説ならいい。小説は地の文で情報量を確保できる。しかし戯曲のスクリプトなんかは読むのが難しい。延々とセリフの羅列で、心の声も状況説明もなされない。まあ高校演劇とかだとしょっぱなから役者に心の声を言わせたりするけどね。見やすくはなるけど安物っぽくなる気がしてならない。

 

最近大学の講義で一線級の映像作家の話を聞く機会があった。その講義を受けて思ったことは「作り手の意図がそのまま受け取り手に伝わるというのは稀だな」ということ。劇でいうと観客は大概、観ているあいだに演じる側が想定しているよりもたくさんのことを考えてくれている。その思考の幅はどれだけあってもいいと思うけど、作り手としてはそれはともすれば伝えたいことが伝わらないという状況。作り手が用意した的に観客は無数の矢を射る。でもその矢は的の正鵠にはなかなか当たらない……みたいな。だから作り手は観客の思考の幅を制限してやる必要がある、、、のかな。よけいな情報はそぎ落として、どんどん洗練させていく。でも世の中にはそういうアホみたいに明瞭な劇ばっかりじゃなくて、無意味な会話とかどうでもよさそうなところに作者の意図の真髄を埋め込んだみたいな劇もあるし、実際それを観ると面白い。うーん。