谺草子

ある時は名古屋の大学生として、またある時は「槌井こだま」として、日々を記録していきます。

「ルナルナ」制作秘話とか神様とか

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正月ぶりです。槌井こだまです。いま夜中になってふと思い立ったのでこの記事を書いてます。

 

まずは近況報告から。最近全然絵が描けていません。驚くほど。家に帰ると体力の残りゲージが2%くらいです。1%を風呂掃除、もう1%を歯磨きに使うのでもう何もできないんですね。それでバタンと寝てしまうという。

そこで見出したのがエロ絵です。やっぱこれだけはどれだけ疲れてても一定以上のモチベーションが維持できます。さすが三大欲求。そしておまけにpixivの閲覧数もある程度稼げる!これ以上に旨味のあるジャンルが他に有ろうか!!(人気の版権キャラと組み合わせれば効果は抜群だ!)

 

まあ、そんなクソみたいな話は置いといて、本題に入ります。

 


ルナルナ/槌井こだま feat. 闇音レンリ

この曲のテーマは端的に言うと「神様」です。


NUMBER GIRL - OMOIDE IN MY HEAD (last live, last song)


SHISHAMO「明日も」


Strawberry Fields Forever - Restored HD Video

まずはテーマとは関係ない話から始めますが、この曲には僕の好きな既存曲の要素をふんだんに取り入れました。イントロから真のイントロに入る部分はナンバーガールの「OMOIDE IN MY HEAD」、サビのコード進行はSHISHAMOの「明日も」、アウトロはビートルズの「ストロベリーフィールズフォーエバー」をめちゃくちゃに、めちゃくちゃに意識して作りました。サビが顕著です。パクリだと言われても仕方なさそうなレベルです。でもあのSHISHAMOの幸薄そうな感じがピッタリだなと思い参考にさせていただきました。サンキュー邦ロック。

何で神様っていうテーマになったんだろう、と思い返す。この歌でうたわれているのは科学が進歩した遠い未来、人類の文明が絶頂を迎えた後の時代の話です。20世紀の初めにはジャンプのような短い距離しか飛べなかった飛行機もその40年後には音よりも速く飛ぶようになり、アメリカの某爆撃機なんかは無給油で地球を半周以上できるようになりました。花火の親分みたいだったロケットもビル並みに大きくなって月に人を運んだり、最近では切り離されたブースターエンジンがひとりでに地上に戻ってくるという技術も開発されています。現時点でもすでに文明は絶頂を迎えているような気もしますが、人類の欲望とは物凄いもので、きっとこれから先も文明の進歩は止まりません。もっと加速するでしょう。そして、そうなればなるほど、大国間の争いは人類文明にとってより致命的なものになっていきます。例えば核兵器。今の世の中は「次に世界大戦が起きたら確実にこの世は終わる。核戦争が地球を死の星に変える」という恐怖の上に平和が成り立っています。核という大きな拳は割と多くの国が振るえます。でもそれを振るったら最後、途方もない核の応酬が文明を一瞬で荒廃に導いてくれます。極端に言えば、一瞬で1万年前の生活に逆戻りです。

「ルナルナ」は、そういう恐怖が今よりもずっとヤバいことになってしまった世界のお話です。理由は明示していませんが作中の世界は滅びてます。もう既に地球文明は完全に崩壊していて、人っ子一人居なくなってしまった死の星・地球を、人類でたった一人生き残った男が月から眺め、かつてそこに居た神様に思いを馳せるという、そういう物語です。

真のイントロで出てくる文章は、

私達は確かめたかっただけなのです。

天国の玉座に誰が腰掛けているのか。

空にかけた叡智の梯子

私達は高く登り過ぎました。

あの星、水素と酸素の羊水に包まれた揺り籠の中で私たちは生まれました。

その外で生きることは契約に反していました。

もっと早く気づけばよかったといくら後悔してももう遅いのです。

私達は転げ落ちてしまったのです。

イントロに文章をバーーーッと出すのは尾石達也演出やぬゆりさんの影響です。

際限なく文明が進歩する様子を「空に架けた梯子を伸ばして天国まで行く、そして神様になり替わる」というイメージに例えた文章です。発展の先には今日よりも明るい未来が待っていると信じて疑わない人類は梯子を伸ばしすぎて、天国があると信じられていた雲海を突き抜けて地球の外に出てしまいました。大気のない場所で人類は生きることはできず、苦しさのあまり梯子から落ちていきます。つまりラピュタ的な、文明の崩壊、人類滅亡の比喩です。

神様はどこにいるのだろう、と思ったことはありませんか?書いてみてめちゃくちゃエ〇バっぽいなと思いましたが怪しまないでください。僕は思ったことあります。家的には仏教徒ですけど。小さいころに母親に聞いたのを今でも覚えています。母親は「神様は皆の心の中に居る」と言っていました(注:うちの家族は別に怪しい宗教をやってたりするわけではありません!!)。その考えがこの曲の中でも生きています。地球の事を「神様がいた星」と言っているのはそういうことです。地球に人類が居ないのなら、そこには神様はいません。主人公は黒い空に浮かぶ青い星を眺めながら、青い星を自分の信じている神様と重ねています。そしてラスサビでは、神様が最早自分の中にしか存在しないものだということを悟ります。最後の「そして誰もいなくなった白い月」で、主人公も死に、人類が信じてきた神様も一緒に死んでしまうのです。

 というわけで、終わります。

新年とか

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※ブログのお絵かき機能が死んでいるため年賀状用のイラストを掲載

皆様明けましておめでとうございます。とりあえず新年一発目の更新は大学生/絵描きの区別なく記事を書いていこうかと思います。おみくじは吉を引きました。大吉を狙っていたのに残念です。

ところで世間の人たちは神社で引くおみくじの序列を「大吉→中吉→小吉→末吉→吉→凶」という風によく勘違いしているようですが実際は「大吉→吉→中吉→小吉→末吉→凶」ですからね。吉は2番目に良いのです。

 

先の選挙からブログを更新していなかったようですね。そもそもブログの存在を忘れているレベルで他ごとが忙しかったんです。演劇だったり学業だったり演劇だったり……そしてこれからも演劇だったり期末試験だったりで忙しいのです。初詣で一年ぶりに会った今や社会人の中学時代の友達が「学生の方が社会人よりも時間ないよなぁ」と言っていました。その通りかもね。あと「学生は夜更かし上等だろうけど社会人はそうもいかない」とも言っていました。つまり学生は深夜に時間を捻出しているということです。いやーマジでそうだよな。先に働いている、いわば”社会の先輩”からの言葉は重いなと感じました。

 

信じられないことに僕は今年で20です。まったくそんな実感がありません。まだ免許も取ってないしバイトはすれど日々労働に明け暮れることもないし、高校の後輩とはまだ時々会うし。何か全然成人になるという感覚が持てませんね。成人式自体は来年なので僕等はなんと、「平成最後の新成人」になります。これから生まれてくる人類には、僕らが昭和生まれの人にそう言うように、きっと「えぇ~平成生まれとか古~!」って言われるんですよ。おまけに僕は20世紀生まれなので「えぇ~前世紀生まれ~!?化石~!!」とも言われます。時代の最先端を行くファッションリーダーを自負している(していない)のでそんなことを言われた暁にゃ自殺もんですよ。何か文章がおかしなテンションになってきましたね。そろそろ終わります。眠いし。

 

それでは本年もどうかよろしくお願いします。

選挙とか

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雨粒が部屋の窓ガラスを叩く。めちゃくちゃにうるさい。平成もあと二年。そんな今年に平成最大級の台風が日本にやってくる。大学生の身分では気になることは明日が休講になるかならないかだ。かといって明日月曜は2限しかないから休講になったとしてもありがたみは薄い。休講になってもならなくてもやることは次の劇に向けて台本を覚えることくらいなのだが。うーん、早く覚えないと。

 

今日は衆議院議員総選挙の日だった。誰もが予想した通りのつまらない結果だった。そんなことは別にどうでもいい。僕は「少しでも面白い結果になればなあ」という考えのもと普通に近所の投票所に行って普通に投票用紙にしかるべき名前と党名を書いてハコに入れた。でも、世の中そんな普通の人だけじゃないらしい。自民圧勝を憂いてか、投票用紙に適当な党名と絵をかいてそれを撮影してツイッターにアップロードしていた人を見かけた。それだけならまだよくある話だと思う。でも、その人は僕の知り合い……というか昔あこがれていた人だった。

 

以前の記事でも触れた気がするが、僕は小学生のころ「うごくメモ帳」というDSiで配信されていたソフトで(今となっては)黒歴史を生産していた。その時に大人気だった人が件のツイッターの人だった。あの頃僕は純粋に「この人絵が上手くてうらやましいなあ。こんな女の子が描けたらなあ」と憧れていた。今になって、その人の常識の無さ、というか、大人げなさを垣間見てしまった。悲しい哉。

リアルに近づくフィクションとか

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つい昨日まで僕は大学生というより演劇人だった。経験したなかで最大規模の公演に役者として参加し、界隈で有名な役者(みな年上)と共演し、学生主体の劇団としては最高レベルのものができたと思う。

 

この劇を作るにあたって僕含め12人の役者は演出を中心に据えてそれぞれの役の持つ思惑、感情をなるべく格好つけないように、なるべく生に近い感じで客席に届けることを目標にして稽古を重ねてきた。その結果そんじょそこらの劇では観れないレベルの叫び声の応酬、感情の衝突を作り上げることができたと思う。観客は観ていて相当疲労感を覚えたと思うし、実際終演後に寄せられた感想のなかには「観ていて疲れた」「しんどい」という意見も多くはなかったがあった。

 

小屋入りをして客席が組み上がって、僕はずっとこの劇の「リアリティ」について考えていた。上演時間はだいたい90分、そのうち役者が叫び声や怒鳴り声をあげている時間は少なく見積もっても40分くらいだっただろうか。実世界でそれだけ長い時間怒号が間髪を入れず飛び交う現場に遭遇したことがある人はどのくらいいるだろう。僕は経験したことが無い。そもそも自分の大学生活にそこまで感情が入り込んでいるような気がしない。普段感じていることは「快」「不快」「楽しい」「楽しくない」くらいの原初的な感情だ。それはきっと自分だけじゃなくて、結構な数の人がそう思っているに違いない。感じたものをそのまま出すのは疲れるし、自分の不利益にも繋がりかねない。逆に生の感情を受け取るのも疲れる。

 

自分の周りには"演劇"然とした芝居がたくさんある。詞的で幻想的で青春の匂いがして現代的なアプローチと古臭い芝居論のあいの子みたいな中途半端な……そんな劇も好きなものは好きだが、虚構性を高めようとしてかえって自分の中の実世界に近づいているような気がする(それは全然悪いことじゃないのかもしれない)。逆に、今回の劇のような感情ぶつけ合いの方がフィクションのように感じられる。それは演劇をやっている人たちに所謂オタクが多いからかもしれない。たとえば声優の演技は現実の人間の声の機微とはかけ離れている。それを僕らは日々消費している。声優の声であふれかえった世界が常だとしたら、そっちのほうがリアリティを持つことになって、普通の人の話す言葉の抑揚とか間は「生っぽい」だけで「リアル」ではなくなる。これは面白い発見かもしれない。

 

 

シャツとか

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今日はとある行事に出席するために本当に久しぶりにワイシャツを着た。自分はずっとワイシャツが苦手だった。首元が締まって息苦しいし、何より似合わない気がしてた。

かつて自分は「コーディネートなら任せてくださいよ。ジブン全国一位っすから」とうそぶく服屋の店員の言うままに季節感のある爽やかなワイシャツを買ったことがあった。でも結局それは今まで一度も着ていない。今日着たのは今度出演するお芝居の為に買ったワイシャツ。いかにもホワイトカラーという感じの奴。それで今日、あらためて久しぶりに着てみたら、何だかとっても良く似合っている気がした。面白いと思ったデザインのTシャツを集めては着るを繰り返し、Tシャツ以外着てやるものかというポリシーを貫いてきた自分が今日、本当に人生で初めて、ワイシャツを良いなぁと感じた。これで大人に混じっても変じゃないな、と。つまり自分の中ではワイシャツとは大人のシンボルなのだと、自分自身に気付かされた。

ここ数年、ずっと友人知人先輩後輩問わずあらゆる人間から「君顔老けてんねえ」と言われ続けてきたが、自分としてはそんな感じはしない。鏡で見る自分はどうみても19歳の男だ。でも写真を撮ってみると明らかに世間に揉まれてくたびれたおっさんがそこには写っている。主観と客観の違いかな。だとしたらその二つのビジョンの落差は物凄い。不思議な話だ。

自分の内面は見た目に反して幼い。少なくとも自分自身ではそう思ってる。社会人になんて1ミリもなりたいと思わないし、感情も疲労もわかりやすく顔に出るし。でも今日の一件で少しだけ大人の内面を手に入れた気がした。単純に自分の価値観の一つの殻がパリッとこう剥けただけかもしれないけど、なんかそんな感じがした、のだ。

「ナツゾラユリシーズ」制作秘話とか死とか

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最近、また新たに曲を作っています。といってもオリジナルではなくて、某有名バンドのカバーです。この曲を初めて聴いたのは確か中学生の頃でした。エヴァのMAD経由です。これはまた結構古い曲で、アップロードしたら何で今更こんなのを掘り起こしてカバーすんねんと言われそうですが、この曲は今だから聴いてほしい曲なんです。まあでもその真意は完成までのお楽しみということで。

既存の曲の打ち込みはオリジナルとはまた違う面白さがあります。他人の筆致を盗み見るというか、こんなコード使ってるんだ〜とか、ベース斬新だな〜、とか、勉強させてもらっている状況ですね。

 

作曲を始めたきっかけはハチの「砂の惑星」でした。前々回の記事に書いたとおり僕は結構昔からのボカロリスナーなんですが、あの曲をリピートして聴いているうちに、俺このまま聴くだけでいいのかな、という思いがふと現れてきたんです。あと大学の夏休みは長くて、何か一つ自由研究みたいなことがしたいなあと思ってたんです。実は音楽を作ること自体にはすごく昔から興味があって、デタラメな作曲めいた事もやったことがありました。でもそれらは僕のパソコンの録音ファイルに溜まっていくばかりで日の目を見ることはなくて、あえなく僕の黒歴史的なモノの一つになっていきました。今回のはそんなモノじゃなくて、ちゃんと理論に基づいた作曲をしてみようと思い、本を買いました。

 

作りながら覚える 3日で作曲入門

作りながら覚える 3日で作曲入門

 

 

タイトルからしていきなり理論から逸脱しましたが、まずは作ってみることが大事だろうと。バイトでの収入もそんなに無いけどタダでもそれなりのDAWソフトが手に入る。楽典を眺めるだけで目眩を起こし楽譜すら読めない僕だけど、ピアノロールだったら何となく分かる。楽譜読めないから書けもしないけどノートを置いたら音が鳴るから何となく分かる。コンプレッサーとかノーマライズとかブロックノイズとかよく分からなかったけどネットで調べたら何となく分かる……情報社会に助けられながらの作業でした。

 

そんなこんなで2週間ほどの悪戦苦闘を経てできた曲が「ナツゾラユリシーズ」でした。本当は「砂の惑星アンサーソング」というテーマに基づいて一曲作ってみようと思っていました。(万年金欠ゆえ)ボーカルをUTAUにすることは決めていたので「ボカロとUTAU」という対立軸を使って、UTAUキャラがボカロに憧れる、みたいなのも良いな~なんて考えてみたり、逆に最近のマイブームでもあるHIPHOP調のトラックにUTAUのラップをのせて砂の惑星をディスってやろうか、とも画策していました。「何がハチだよ」みたいな反骨もマンネリ化甚だしいボカロ界隈には良いかなと。disも愛あればこそですしね。そもそもボカラップとかミックホップ(ミクとヒップホップの鞄語)ってまだまだ発展途上だからその流れに入ってみるってのも面白そうだなと。旅はまだまだ続くんだと。そんなことを考えているうちに毒が抜けて「旅」の部分だけが大きくなっていったのがこの曲です。ユリシーズ(Ulysses)ってのはオデュッセウスラテン語名で、オデュッセウスといえば『オデュッセイア』の主人公ですね。オデュッセイアというのは賢明な読者諸兄の皆様ならご存知だと思いますので割愛します。ハイ思い出せないだけです。長い長い旅のことをオデッセイとか言いますよね。そんなイメージです。

Twitterでリスナー様からこのような評価を頂きました。ありがとうございます。

僕があの曲で表現したかったことは、端的に言えば「青春のキラキラ」「死者に思いを馳せる」でした。楽曲の製作期間とお盆が重なっていて、そういう題材もいいかな、と思いました。動画で使ったイラストにも色々と要素を詰め込んでいるので目を凝らして見てみてください。

 

これを読んでくださっている奇特な方々、あなたが一番身近に「死」を感じる季節はいつですか。僕は夏です。一般的には死とか、静的な季節と言われたら冬をイメージすると思うんですが、夏って動植物すべての生き物が活発になる季節で、それがかえって死を色濃く見せているような気がするんですね。光が強ければ影も濃い、的な。前にも言ったようにお盆があるから死者を意識する。蝉が木にとまってミンミンとけたたましく鳴いているなかで路上で足を畳んで静かになっちゃったヤツもいる。それに目が行く。山や海で遊んでいる人もいれば遭難や水難事故、熱中症で亡くなる人もいる。そういうニュースに悲しくなる。8月になると嫌でも戦争とか原爆とかを意識する。NHKとかで戦争の特集がよく組まれるようになってそういうのを見ては過去の惨事に思いを馳せる。夏の終わりは特に死を意識します。夏休みが長くなったとはいえ体感的には夏の終わりは8月31日で、その日の前後数日間は一年の中でも特に中高生の自殺が多くなる日です。高校生の時は実力テストとか定期試験とか文化祭とかに追われていたので何かを感じる暇もなく気が付けば10月になっていたのですが、休みが延びた今になっていろいろなことを考えてしまいます。死とは創作意欲を掻き立てるものだなと。こんなことを言うと「死を軽視している」とか「不謹慎だろう」とか言われるやもしれませんが、身内とか友人の死でない限り死ってその程度のものだと思います。(臨死体験はともかく)死を経験したことがある人なんてこの世に生きていませんし、実態は結局誰にも分らないんですから。

 

自分の想像力とか演劇とか

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自分は文章を書くときに長々と推敲してしまう。時々面白い小説を思いついたりしてスマホのメモ帳に書き始めるんだけど、細かな部分を推敲しているあいだに熱が冷めて文字を打つ手が止まってしまう。だから思った、せめてブログとかのどうでもいい文章を書く時くらいは長考はやめようと。

 

最近つくづく、自分には想像力が無いな、と思う。何を想像力と呼ぶかによって話は変わってくるだろうけど、たとえば小説の一説から場面の絵ヅラを想像するのは簡単だ。「国境の長いトンネルを~」という『雪国』の有名な冒頭から場面の情景を思い描くのは難しいことでも何でもない。でも、登場人物の心情とか、思考・感情の流れを想像するのは苦手だ。まだ小説ならいい。小説は地の文で情報量を確保できる。しかし戯曲のスクリプトなんかは読むのが難しい。延々とセリフの羅列で、心の声も状況説明もなされない。まあ高校演劇とかだとしょっぱなから役者に心の声を言わせたりするけどね。見やすくはなるけど安物っぽくなる気がしてならない。

 

最近大学の講義で一線級の映像作家の話を聞く機会があった。その講義を受けて思ったことは「作り手の意図がそのまま受け取り手に伝わるというのは稀だな」ということ。劇でいうと観客は大概、観ているあいだに演じる側が想定しているよりもたくさんのことを考えてくれている。その思考の幅はどれだけあってもいいと思うけど、作り手としてはそれはともすれば伝えたいことが伝わらないという状況。作り手が用意した的に観客は無数の矢を射る。でもその矢は的の正鵠にはなかなか当たらない……みたいな。だから作り手は観客の思考の幅を制限してやる必要がある、、、のかな。よけいな情報はそぎ落として、どんどん洗練させていく。でも世の中にはそういうアホみたいに明瞭な劇ばっかりじゃなくて、無意味な会話とかどうでもよさそうなところに作者の意図の真髄を埋め込んだみたいな劇もあるし、実際それを観ると面白い。うーん。